森林と家づくり(6)

森林と家づくり(6)

日中緑化の仕事で中国から帰った数日後の11月28日に小川長洞国有林(下呂市)に出かけました。
この山は、42年前に担当区主任(現在は森林官)として勤務した懐かしい山です。
 
装いは、名古屋営林局計画課に入庁して間もない頃に買った京都の帆布店オリジナルの地質調査用バッグ(現在のものはその3台目)に高度計、クリノメーター、折尺、土壌調査用のハサミと小型のショベルなど七つ道具を入れ、当時と変わりません。一人で出かけました。
 
許可を得て国有林入口のゲートを開けると、私の脳裏は40年前に遡っていました。
真っ先に目に入ってきたのは、スギの品種実験林です。
 
ここは、全国から集められた各地のスギ品種が植えられており、成長量や形質などについて業務研究発表をしたことがあります。
 
その時のスギ造林木は、成長が良かった東北のスギでさえ背丈を僅かに超える程度でしたが、一帯を覆い尽くす大森林になっていて驚きました。
 
また、記憶ではその中腹を通過する林道沿線に桜の苗を植えましたが、広く枝を張った大木が1本だけ残っていました。
 
直径30cm、樹高は20mほど、品種は「フゲンゾウ」で花は大輪、八重咲きで淡紅色、雌しべが普賢菩薩の乗る象の鼻に似ていることから命名されたといわれるものでした。
 
はやる気持ちを抑えながら、本拠地だった事務所の位置に近づきましたが、今はあのモダンな建物はそこにはなく、撤去されて跡地が広がっていました。
 
さらに奥へ向かい、当時命名した「チゴユリ峠」に至りました。
車を降りて歩道沿いに「中川教室」と呼ばれていた場所へ急ぎました。
そこは朽ち果てた丸太の椅子だけが面影を残し、冬空の雲の切れ間からギャップとなったこの場所だけ弱い日差しが、若かった時代の夢の跡を照らしていました。懐かしさが堰を切ったようにこみ上げてきました。
 
傍らには、当時から自生していたコウヤマキの天然木が、一抱えほどに成長していました。
 
「このあたりの山が北限ですよ。」森林教室での当時の自分の声が聞こえるような気がしました。
思えばこの山が私の青春、ロマンそのものでした。
 
ここからすべてが始まったのです。
 
国有林へ入庁して35年、森林とともに歩んできました。
その頃、買い集めた書籍はほとんど森林に関わるものでした。
小松左京が小説「日本沈没」を世に発表してSFファンになり、多くの友人と夜遅くまで酒を酌み交わし、ニーノ・ロータの曲ゴットファーザー「愛のテーマ」を歌い、帰宅すれば2人の幼い息子らが、身の丈ほどあるマジンガーZの玩具を抱えて2部屋だけの官舎内を走り回り、妻に手伝ってもらって「うぐいす」と呼んだ収穫調査の野帳を短冊に切って本数や材積を計算しました。
 
すべてが山と関わる生活でした。どうしても見たい山は、さらに奥に進んで道沿いに尾根を2つ曲がった先です。
モミなどが自生するこの地域を代表する中間温帯林を抜け、その先は1109、1108、1107林班と続きます。
 
ここでは明治26年~27年植栽の古い人工林の中に小さな苗木を植え、当時では珍しい複層林をつくりました。
 
収穫は皆伐(全て伐採する方法)が主流でしたから批判や忠告を受けたあの頃の先輩諸氏の顔が浮かんできました。
 
さあ、思い出の植林地1106林班についてお話しましょう。
人の適性や能力に応じて、それにふさわしい地位・仕事に就かせることを「適材適所」と言いますが、木材で住宅を建てる場合もまさに「適材適所」は重要となります。
 
林業では「適地適木」という似た言葉があります。
新しい森林をつくる時、どんな樹種を植えるかが最も重要です。
 
一般的には昔からの経験則で行われてきましたが当時私は、現地の自然条件などを調べて、科学的な根拠で植付け樹種を決めたのです。
 
もう少し詳しく説明しましょう。
対象となる伐採後の林地に50mの格子状に調査点を設け、標高、方位、傾斜、地質、土壌型、A層(植物が生育する土層)の厚さなどの立地条件を詳しく調べました。
 
この立地因子ごとに多次元解析して作成したスコア表を使って基準林齢の樹高を求め成長量を予測する手法です。
 
調査地点ごとに有意となる樹種を判定して造林樹種を決めました。
 
この林が現在どのように成長しているか。40年前に植えたスギ、ヒノキ林の中に分け入ってみました。
 
植付け本数はha当たり4,500本でした。その後成長とともに間伐が行われたのでしょう、現在は約1,400本でした。
そして直径20cm、樹高18m、予測を上回る成長を示していました。
 
全容が見渡せる場所を探しましたが、樹木が周囲を埋め尽くし、うまく写真に収めることができませんでした。
 
それでも限りない喜びと自信、誇りさえ感じました。
日本の森林は、確実に成長し続けているのでしょう。
老いた体を熱くしたまま下山しました。
 
翌日、「一人で山は解かりましたか。」
第2の職場として15年勤務となった中島工務店の若い後輩から尋ねられました。
「山を歩いた記憶は不思議なくらい鮮明なのです。」
 
(中島工務店 総合研究所長 中川護)
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