森林と家づくり 5  人工仕立て木曽ヒノキ林

私たちのふるさと岐阜県と、お隣の長野県木曽谷地方に生育する「木曽ヒノキ」は、世界的にも優れた森林から生産される天然ヒノキで、木曽、裏木曽地方を中心とした地域の特殊な立地条件に分布し、今日まで長年に亘って天然の貴重材として大量に生産され、日本固有の木の文化の形成に大きく寄与してきました。そして同時に、歴史的にも地域産業・経済と密接に関係してきました。
国有林に就職した最初の仕事は、私のふるさとの上流の国有林から伐採される木材の計測でした。木曽ヒノキのほか、サワラ、モミ、ネズコ、ヒバの針葉樹、広葉樹はミズメ、ケヤキ、ミズナラ、トチノキなどすべて天然材で、年間約2万石(約7,400m)でした。伐倒、玉切りされた木曽ヒノキは、元玉の太さが背丈ほどのものもあり、その切り口(木口という)は真っ白で美しい年輪が純金の糸を巻いたように詰まり、独特の清楚な香りを漂わせていました。名古屋営林局に異動した昭和40年代は、管内の木曽ヒノキが10万mを超え、最も出材量が多くなりました。世はまさに高度経済成長期でしたから、国内の木材需要の高まりは、限りなく価格の高騰を招き、国有林では人工林の緊急伐採を行って市場に木材を大量に供給して価格安定を図るほどでした。昭和50年代になると、木曽谷で概ね500万m、裏木曽で150万mなど無尽蔵と思われるほどの蓄積量を持っていた木曽ヒノキは、急激に減少して行きました。社会の発展に伴い、木材供給に加え森林の持つ多面的な機能への国民的な期待や要請が高まってきました。昭和50年代後半になると名古屋局管内には、永続的な資源量として考えるほどの木曽ヒノキはすでになくなり、これまでに書いてきた中津川市加子母地内の神宮備林(伊勢神宮の遷宮用材として備蓄されてきた森林)の約700haを除いてほかにはほとんど残っていませんでした。
木曽ヒノキが枯渇することを目前にして名古屋局では、国有林の長期計画の樹立に当たり、これの代替え材としてヒノキの人工林1,200haの森林を、それまで考えられたこともない150年という長伐期として温存し、木曽ヒノキに匹敵する大径材になるまで伐採するのを引き延ばす計画を提案しました。「君の給料は払わないぞ」。当時、伐採を担当する部署の幹部から脅迫されるほどでした。それもそのはず、最も収入が期待される明治時代に植林された良質のヒノキが林立する人工林の伐採をしないと決めたわけですから、収入をあてにしていた部署からすれば「とんでもないこと」だったのです。この時の上司の恨みは、在職中に消えることはありませんでした。
計画を担当していた筆者らにしても、決して無責任な提案でなかったことは言うまでもありません。計画策定に当たって、人工林のヒノキが木曽ヒノキの代替え材になりうるかどうか。他県の林産試験場に出かけて、ヒノキの理学的性質等の試験を依頼しました。結果は、年輪幅こそ天然のヒノキに比べて人工林のヒノキはその幅が広いものの、その他の質的(理学的)な差は見られませんでした。市場の評価を伺うための試験的な販売においても、1m当たり22万円という好結果でした。また、伐期150年とした場合の材の径級(太さ)など成長予測も大議論でした。我が国における人工造林の歴史は明治20年代以前のものは少なく、とりあえず目標とした胸高直径36cm以上のヒノキを生産するための生育期間など保育形式(森林を仕立てる経営方針など)を決めるまでには多く検討が必要でした。
木曽川の支流付知川を遡ると国有林に入ります。最初に出会うのは明治30年代に植林されたヒノキの人工林で、この流域では最も古い100年生を超える見事な人工林です。記憶では、過去7回の間伐が行われており、現在の太さは(平均胸高直径)は30cmを超え40cm以上のものさえ見られます。この林こそ、当時「人工仕立て木曽ヒノキ林」の筆頭に指定しました。もしも今、このヒノキを木造建築に使用したらどんなにすばらしい建物ができるでしょう。平成17年に建てられた京都迎賓館は、日本ならではのスタイルで、海外からの賓客をもてなす施設で、数寄屋大工ら、人間国宝を含む100人以上の職人が携わった伝統技能の集大成となっています。吉野地方の山林から厳選されてその天井に使用された長さ12m、幅500mmの杉の天井板は樹齢280年、山の神の存在を感じるほど見事な木だったそうです。この人工仕立ての林からも、そのうち何時か我が国を代表する建造物の用材としての出番が巡ってくるのだろうと想像します。木曽ヒノキによって生まれた日本の建築文化、その技術を、材料を枯渇させることなく、育まれてきた技術を伝承することこそ日本民族として大切ではないか。いま、人工仕立て木曽ヒノキ林の構想はどうなったか解りませんが、100年を超えてもなお、伐採されることなく生育を続けているヒノキ林を愛おしく思います。この林を通過するたびに、当時のこの構想を皆さんにお話ししながら、その奥に唯一残された旧神宮備林を目指すのです。